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第7話 血の契約

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-27 08:39:14

 

 呪いは、右手から心臓へ食い込んだ。

 リュゼルの身体が大きく跳ねる。

 息を吐くこともできないまま、祭壇へ肩から倒れ込んだ。黒い石へ頬を打ちつけても、その痛みはほとんど感じなかった。

 もっと深い場所が、内側から食い荒らされている。

「リュゼル!」

 初めて、ネフィリアが彼の名を呼んだ。

 けれど返事ができない。

 黒鎖から流れ込んだ霧が、皮膚の下へ入り込んでいた。無数の小さな虫が血管を這い、肉を食い破りながら胸へ集まるような痛み。右腕の血管が黒く浮かび、指先から肩へ向かって異様に膨れ上がっていく。

 黒銀色の墓碑紋が、呼吸するように明滅した。

 一つの名が熱を放つ。

 竜哭王ヴァルディオス。

 途端に、リュゼルの視界から地下神殿が消えた。

 炎に包まれた黒い城。

 切り落とされる翼。

 幼い銀髪の少女が、閉ざされる門の向こうへ連れ去られていく。

 今度こそ守れ。

 今度こそ鎖を断て。

 ヴァルディオスの怒りと後悔が、黒金の炎となって全身を駆け巡った。

 右腕だけへ留めていた《黒竜鱗》が、勝手に肩を越える。胸を覆い、首筋へ達し、頬の皮膚を黒く染めた。背中では、存在しない翼の骨が再び形を得ようと蠢いている。

「違う……俺は……」

 喉から漏れた声は、獣の唸りに近かった。

 ヴァルディオスの願いを拒むつもりはない。

 だが、これは自分の怒りではない。

 分かっているのに、境目が見つからなかった。

 ネフィリアの胸元に浮かぶ王家の紋章が、黒い霧を引き寄せている。彼女の苦痛を見た瞬間、竜の記憶がさらに激しく暴れた。

 助けなければ。

 守らなければ。

 そのためなら、この人間の身体など壊れても構わない。

 死者の思いが、リュゼル自身の命を燃料にしようとしていた。

「こちらを見なさい!」

 ネフィリアの声が飛ぶ。

 鎖が激しく鳴った。

 彼女は祭壇へ縫い止められた身体を無理に前へ寄せていた。首と腰の枷が食い込み、黒いドレスの胸元へ新しい血が滲んでいる。それでも身を伸ばし、両手を拘束する鎖の限界まで腕を差し出した。

 白い指が、リュゼルの右腕を掴む。

 黒竜鱗へ触れた掌から煙が上がった。

「離せ……火傷する」

「すでにしています」

「なら、なおさら――」

「黙りなさい」

 命令と同時に、指へ力が込められた。

 ネフィリアの手も震えている。左腕には黒い霧が回り、爪の色まで紫黒に染まり始めていた。自分も呪いに蝕まれながら、彼女はリュゼルから手を離さない。

「その力を鎮められるものが、私の血以外にありません」

「血?」

「深淵王家の血は、奈落の魔力を鎮め、従わせる。ヴァルディオスも知っていたはずです」

 その名に反応し、黒竜鱗が大きく波打った。

 ネフィリアは白い歯で、自らの下唇を強く噛んだ。

 薄い皮膚が裂け、鮮やかな血が溢れる。

 彼女は拘束されたまま顔を寄せた。顎を伝った一滴が、祭壇へ伏したリュゼルの口元へ落ちる。

 リュゼルは咄嗟に顔を背けようとした。

「やめろ。あんたまで血を失えば――」

「生きたいなら飲みなさい」

 紫紺の瞳が、逃げることを許さず彼を見据えている。

「これは施しではありません。あなたが死ねば、ヴァルディオスの力が暴走し、この神殿ごと私も呑まれる。必要だから与えるのです」

 突き放すような言葉だった。

 それでも、リュゼルの腕を掴む指は必死だった。

 もう一滴、血が唇へ落ちる。

 鉄に似た味の奥に、深い夜の冷たさがあった。

 リュゼルは血を飲み込んだ。

 喉を通った瞬間、黒金の炎が止まる。

 燃え盛る怒りを無理に押し潰したのではない。

 冷たい水へ包まれるように、ヴァルディオスの記憶が静まっていく。切り落とされた翼も、届かなかった爪も消えはしない。ただ、それがリュゼル自身の記憶ではないと、再び見分けられるようになった。

 肩と胸へ広がっていた鱗が火の粉へ変わり、右腕の墓碑紋へ戻っていく。

 呼吸ができる。

 リュゼルが大きく息を吸った時、ネフィリアの胸元から紫黒色の光が伸びた。

 細い糸のような光は、彼女の心臓からリュゼルの心臓へつながっている。

 互いの鼓動が、一瞬だけ重なった。

 一つ。

 また一つ。

 異なる速さで打っていた二つの心臓が、紫黒色の線を通して同じ間隔を刻み始める。

「これは……」

 ネフィリアが息を止める。

 二人の視界へ、黒紫色の文字が浮かび上がった。

 《仮契約成立》

 《契約対象・ネフィリア・エル=ヴァルグレイ》

 《契約条件・双方の生存》

 《契約破棄条件・一方による明確な拒絶》

 文字は古い石板へ刻まれるように、一字ずつ光を帯びていく。

 リュゼルが顔を上げると、ネフィリアも同じ場所を見つめていた。

「あんたにも見えているのか」

「ええ」

 ネフィリアの声から、初めて確かな戸惑いが滲んだ。

「こんな契約、聞いたことがない」

 紫黒色の線へ視線を落とす。

「血を介した契約なら、主従、隷属、盟約、守護のいずれかになるはずです。条件も代償も、名を受け取った側が定める。双方の生存だけを目的に、拒絶一つで破棄できる契約など……」

「俺が《葬送者》だからか?」

「分かりません。原初職能と深淵王家の血が触れたことで、どちらの術式にも存在しない形が生まれたのかもしれない」

 ネフィリアが僅かに指を動かした。

 その動きに応じ、紫黒色の線を通して冷たい魔力がリュゼルの胸へ流れ込む。

 同時に、彼女の指先から漏れていた魔力が結界の外へ現れた。黒紫色の光となり、リュゼルの右手へ集まっていく。

「私の魔力が、あなたを通して鎖の外へ出ている」

「俺も、あんたの魔力を借りられるらしい」

「喜ぶのは早いわ」

 ネフィリアの表情が引き締まる。

「心臓が結ばれている。片方が致命傷を負えば、その負担はもう片方へ流れるでしょう。あなたが無謀な真似をすれば、私まで傷つく」

「あんたが死にかけても、俺に来るのか」

「おそらく」

「なら、自分だけが助かる契約じゃない」

 リュゼルはまだ痺れる右手を握った。

「それなら構わない」

「構いなさい」

 ネフィリアは紫紺の瞳を吊り上げた。

「互いの生死を見知らぬ相手へ預ける契約なのよ。もっと警戒するのが普通でしょう」

「拒絶すれば切れるんだろう?」

「そう書かれています」

「だったら、どちらかが本当に嫌になった時に切ればいい」

「あなたは……」

 ネフィリアが続けようとした言葉を、金属の軋む音が遮った。

 神殿の床へ縫い止めていた黒鎖が、一本ずつ持ち上がっている。

 墓守蜈蚣が、列柱の残骸の下で再び身を捩っていた。

 骨の外殻に生じた亀裂から、粘つく黒い液体が溢れている。無数の節足が床を掻き、打ち込まれた金具を少しずつ引き抜いていた。

「拘束が破られます」

 ネフィリアが祭壇の上で身を起こす。

「完全に自由になるまで、二十息もありません」

「今の力で、あれを焼けるか」

「外殻は無理です。深層の魔力を長く浴び、骨が幾層にも重なっている。私の力をすべて渡しても、表面を焦がすだけでしょう」

 墓守蜈蚣の内側から、微かな声が聞こえた。

 泣き声。

 呻き。

 祈り。

 《微音察知》が拾った音は、魔物自身の咆哮ではなかった。

 幾百、幾千もの異なる声が、硬い外殻の中へ閉じ込められている。

「中に、何かいる」

 リュゼルは右目を凝らした。

 黒い液体の奥で、小さな光が蠢いている。

 ヴァルディオスの記憶が、その正体を告げた。

 墓守蜈蚣は、墓所に集まる死骸を食らって成長する。肉と骨だけでなく、死者の怨念まで腹へ取り込み、やがて自分自身の意識を失う。

 あの外殻は、無数の死者を閉じ込める牢でもあった。

「殻を焼く必要はない」

 リュゼルは立ち上がった。

 契約の線が胸元で揺れる。

「中に溜まっているものだけを焼けないか」

 ネフィリアは墓守蜈蚣を見据えた。

「私の魔力は、魂と呪いへ干渉できます。けれど、あれほどの怨念を焼けば、あなたの意識まで巻き込まれる」

「ヴァルディオスの《残火》なら、死者を傷つけずに呪いだけを燃やせる」

「制御できるの?」

「一人では無理だ」

 リュゼルはネフィリアへ右手を向けた。

「だから、あんたが加減してくれ」

 ネフィリアは一瞬、言葉を失った。

 すぐに紫紺の瞳を細め、呼吸を整える。

「契約したばかりの魔族へ、力の制御を任せる人間がいるとは思わなかった」

「俺も、契約したばかりの人間を死なせる王女はいないと思っている」

「信用ではなく、都合のよい推測ね」

「今はそれで十分だ」

 黒鎖が一本、床から抜けた。

 墓守蜈蚣の頭部が持ち上がり、大顎が開く。

「来ます!」

 リュゼルは右腕を前へ出した。

 墓碑紋の中から、黒金の火種を一つだけ呼び起こす。

 熱が骨へ染み込む寸前、ネフィリアの魔力が契約線を通して流れ込んだ。冷たい紫の力が炎を包み、荒れ狂う竜の怒りから、死者を送ろうとした静かな願いだけを選び取る。

 黒金と紫紺。

 二つの力が混ざり合い、黒紫色の炎へ変わった。

 墓守蜈蚣が鎖を引き千切り、リュゼルへ突進する。

「今です!」

 ネフィリアの声と同時に、リュゼルは右手を振り抜いた。

 黒紫色の炎が細い奔流となって飛ぶ。

 炎は墓守蜈蚣の外殻へ触れたが、骨を焦がさなかった。

 亀裂へ吸い込まれ、その内側へ潜り込む。

 一瞬の静寂。

 次いで、魔物の巨体から幾千もの声が溢れた。

 墓守蜈蚣が身を反らし、神殿全体を揺らす咆哮を上げる。黒い炎が外殻の内側を走り、閉じ込められていた怨念だけを焼いていく。

 恨みが。

 恐怖が。

 死してなお囚われていた執着が、黒い煤となって消えていく。

 外殻の隙間から、無数の小さな光が浮かび上がった。

 人に似たもの。

 獣に似たもの。

 名も形も失ったもの。

 光は地下神殿の天井へ昇り、鎖の間を抜けて闇へ消えていった。

 墓守蜈蚣の動きが止まる。

 長い胴が力を失い、列柱の残骸の上へ沈んだ。

 リュゼルはゆっくり近づいた。

「まだ危険です」

「分かっている」

 返事をしながらも、足を止めなかった。

 空洞になりかけた外殻の奥に、わずかな意識が残っている。

 リュゼルは黒竜鱗を右手へ薄く発現させ、墓守蜈蚣の頭部へ触れた。

 飢えが流れ込んできた。

 まだ小さかった頃、墓所の暗がりで骨を齧った記憶。食べなければ死ぬ。食べれば死者の声が腹へ溜まる。それでも空腹から逃れられず、肉を、骨を、怨念を食らい続けた。

 やがて自分の声が、無数の死者に埋もれた。

 何を欲していたのかも、どこへ帰りたかったのかも分からなくなった。

 最後に残っていたのは、終わりたいという小さな願いだけだった。

「もう、聞こえない」

 リュゼルは囁いた。

「中にいた奴らは、全部出ていった。お前の声も、もう埋もれない」

 墓守蜈蚣の白い目から、濁りが消えた。

 触れていた外殻が淡い光へ変わる。

 硬く重なった骨の一部が剥がれ、黒銀色の流れとなってリュゼルの左肩へ吸い込まれた。

 《葬送継承・墓守蜈蚣》

 《継承能力・墓殻》

 新たな墓碑紋が肩甲骨へ刻まれる。

 今度は、奪ったとは思わなかった。

 終わりを望んだ意識が、自ら託したものだと分かったからだ。

 墓守蜈蚣の巨体は、静かに灰へ変わった。

 その時、神殿の天井で何かが弾けた。

 戦いの振動と契約の炎に耐えきれず、ネフィリアの右手首を拘束していた黒鎖が中央から砕ける。

 枷が祭壇へ落ち、重い音を響かせた。

 ネフィリアは自由になった右手を見つめた。

 何度か指を開き、閉じる。自分の意思で動くことを確かめているようだった。

 やがて彼女は手を伸ばす。

 白い指先が、リュゼルの頬へ触れた。

 鎖も結界も介さない、初めての温度だった。

「契約が続く間だけは、あなたを死なせない」

 言葉は冷たかった。

 けれど指先は、頬の傷を避けるように触れている。

 リュゼルはその手から逃げず、紫紺の瞳を見返した。

「それはこっちの台詞だ」

 二人をつなぐ紫黒色の線が、互いの鼓動に合わせて淡く脈打った。

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