LOGIN呪いは、右手から心臓へ食い込んだ。
リュゼルの身体が大きく跳ねる。
息を吐くこともできないまま、祭壇へ肩から倒れ込んだ。黒い石へ頬を打ちつけても、その痛みはほとんど感じなかった。
もっと深い場所が、内側から食い荒らされている。
「リュゼル!」
初めて、ネフィリアが彼の名を呼んだ。
けれど返事ができない。
黒鎖から流れ込んだ霧が、皮膚の下へ入り込んでいた。無数の小さな虫が血管を這い、肉を食い破りながら胸へ集まるような痛み。右腕の血管が黒く浮かび、指先から肩へ向かって異様に膨れ上がっていく。
黒銀色の墓碑紋が、呼吸するように明滅した。
一つの名が熱を放つ。
竜哭王ヴァルディオス。
途端に、リュゼルの視界から地下神殿が消えた。
炎に包まれた黒い城。
切り落とされる翼。
幼い銀髪の少女が、閉ざされる門の向こうへ連れ去られていく。
今度こそ守れ。
今度こそ鎖を断て。
ヴァルディオスの怒りと後悔が、黒金の炎となって全身を駆け巡った。
右腕だけへ留めていた《黒竜鱗》が、勝手に肩を越える。胸を覆い、首筋へ達し、頬の皮膚を黒く染めた。背中では、存在しない翼の骨が再び形を得ようと蠢いている。
「違う……俺は……」
喉から漏れた声は、獣の唸りに近かった。
ヴァルディオスの願いを拒むつもりはない。
だが、これは自分の怒りではない。
分かっているのに、境目が見つからなかった。
ネフィリアの胸元に浮かぶ王家の紋章が、黒い霧を引き寄せている。彼女の苦痛を見た瞬間、竜の記憶がさらに激しく暴れた。
助けなければ。
守らなければ。
そのためなら、この人間の身体など壊れても構わない。
死者の思いが、リュゼル自身の命を燃料にしようとしていた。
「こちらを見なさい!」
ネフィリアの声が飛ぶ。
鎖が激しく鳴った。
彼女は祭壇へ縫い止められた身体を無理に前へ寄せていた。首と腰の枷が食い込み、黒いドレスの胸元へ新しい血が滲んでいる。それでも身を伸ばし、両手を拘束する鎖の限界まで腕を差し出した。
白い指が、リュゼルの右腕を掴む。
黒竜鱗へ触れた掌から煙が上がった。
「離せ……火傷する」
「すでにしています」
「なら、なおさら――」
「黙りなさい」
命令と同時に、指へ力が込められた。
ネフィリアの手も震えている。左腕には黒い霧が回り、爪の色まで紫黒に染まり始めていた。自分も呪いに蝕まれながら、彼女はリュゼルから手を離さない。
「その力を鎮められるものが、私の血以外にありません」
「血?」
「深淵王家の血は、奈落の魔力を鎮め、従わせる。ヴァルディオスも知っていたはずです」
その名に反応し、黒竜鱗が大きく波打った。
ネフィリアは白い歯で、自らの下唇を強く噛んだ。
薄い皮膚が裂け、鮮やかな血が溢れる。
彼女は拘束されたまま顔を寄せた。顎を伝った一滴が、祭壇へ伏したリュゼルの口元へ落ちる。
リュゼルは咄嗟に顔を背けようとした。
「やめろ。あんたまで血を失えば――」
「生きたいなら飲みなさい」
紫紺の瞳が、逃げることを許さず彼を見据えている。
「これは施しではありません。あなたが死ねば、ヴァルディオスの力が暴走し、この神殿ごと私も呑まれる。必要だから与えるのです」
突き放すような言葉だった。
それでも、リュゼルの腕を掴む指は必死だった。
もう一滴、血が唇へ落ちる。
鉄に似た味の奥に、深い夜の冷たさがあった。
リュゼルは血を飲み込んだ。
喉を通った瞬間、黒金の炎が止まる。
燃え盛る怒りを無理に押し潰したのではない。
冷たい水へ包まれるように、ヴァルディオスの記憶が静まっていく。切り落とされた翼も、届かなかった爪も消えはしない。ただ、それがリュゼル自身の記憶ではないと、再び見分けられるようになった。
肩と胸へ広がっていた鱗が火の粉へ変わり、右腕の墓碑紋へ戻っていく。
呼吸ができる。
リュゼルが大きく息を吸った時、ネフィリアの胸元から紫黒色の光が伸びた。
細い糸のような光は、彼女の心臓からリュゼルの心臓へつながっている。
互いの鼓動が、一瞬だけ重なった。
一つ。
また一つ。
異なる速さで打っていた二つの心臓が、紫黒色の線を通して同じ間隔を刻み始める。
「これは……」
ネフィリアが息を止める。
二人の視界へ、黒紫色の文字が浮かび上がった。
《仮契約成立》
《契約対象・ネフィリア・エル=ヴァルグレイ》
《契約条件・双方の生存》
《契約破棄条件・一方による明確な拒絶》
文字は古い石板へ刻まれるように、一字ずつ光を帯びていく。
リュゼルが顔を上げると、ネフィリアも同じ場所を見つめていた。
「あんたにも見えているのか」
「ええ」
ネフィリアの声から、初めて確かな戸惑いが滲んだ。
「こんな契約、聞いたことがない」
紫黒色の線へ視線を落とす。
「血を介した契約なら、主従、隷属、盟約、守護のいずれかになるはずです。条件も代償も、名を受け取った側が定める。双方の生存だけを目的に、拒絶一つで破棄できる契約など……」
「俺が《葬送者》だからか?」
「分かりません。原初職能と深淵王家の血が触れたことで、どちらの術式にも存在しない形が生まれたのかもしれない」
ネフィリアが僅かに指を動かした。
その動きに応じ、紫黒色の線を通して冷たい魔力がリュゼルの胸へ流れ込む。
同時に、彼女の指先から漏れていた魔力が結界の外へ現れた。黒紫色の光となり、リュゼルの右手へ集まっていく。
「私の魔力が、あなたを通して鎖の外へ出ている」
「俺も、あんたの魔力を借りられるらしい」
「喜ぶのは早いわ」
ネフィリアの表情が引き締まる。
「心臓が結ばれている。片方が致命傷を負えば、その負担はもう片方へ流れるでしょう。あなたが無謀な真似をすれば、私まで傷つく」
「あんたが死にかけても、俺に来るのか」
「おそらく」
「なら、自分だけが助かる契約じゃない」
リュゼルはまだ痺れる右手を握った。
「それなら構わない」
「構いなさい」
ネフィリアは紫紺の瞳を吊り上げた。
「互いの生死を見知らぬ相手へ預ける契約なのよ。もっと警戒するのが普通でしょう」
「拒絶すれば切れるんだろう?」
「そう書かれています」
「だったら、どちらかが本当に嫌になった時に切ればいい」
「あなたは……」
ネフィリアが続けようとした言葉を、金属の軋む音が遮った。
神殿の床へ縫い止めていた黒鎖が、一本ずつ持ち上がっている。
墓守蜈蚣が、列柱の残骸の下で再び身を捩っていた。
骨の外殻に生じた亀裂から、粘つく黒い液体が溢れている。無数の節足が床を掻き、打ち込まれた金具を少しずつ引き抜いていた。
「拘束が破られます」
ネフィリアが祭壇の上で身を起こす。
「完全に自由になるまで、二十息もありません」
「今の力で、あれを焼けるか」
「外殻は無理です。深層の魔力を長く浴び、骨が幾層にも重なっている。私の力をすべて渡しても、表面を焦がすだけでしょう」
墓守蜈蚣の内側から、微かな声が聞こえた。
泣き声。
呻き。
祈り。
《微音察知》が拾った音は、魔物自身の咆哮ではなかった。
幾百、幾千もの異なる声が、硬い外殻の中へ閉じ込められている。
「中に、何かいる」
リュゼルは右目を凝らした。
黒い液体の奥で、小さな光が蠢いている。
ヴァルディオスの記憶が、その正体を告げた。
墓守蜈蚣は、墓所に集まる死骸を食らって成長する。肉と骨だけでなく、死者の怨念まで腹へ取り込み、やがて自分自身の意識を失う。
あの外殻は、無数の死者を閉じ込める牢でもあった。
「殻を焼く必要はない」
リュゼルは立ち上がった。
契約の線が胸元で揺れる。
「中に溜まっているものだけを焼けないか」
ネフィリアは墓守蜈蚣を見据えた。
「私の魔力は、魂と呪いへ干渉できます。けれど、あれほどの怨念を焼けば、あなたの意識まで巻き込まれる」
「ヴァルディオスの《残火》なら、死者を傷つけずに呪いだけを燃やせる」
「制御できるの?」
「一人では無理だ」
リュゼルはネフィリアへ右手を向けた。
「だから、あんたが加減してくれ」
ネフィリアは一瞬、言葉を失った。
すぐに紫紺の瞳を細め、呼吸を整える。
「契約したばかりの魔族へ、力の制御を任せる人間がいるとは思わなかった」
「俺も、契約したばかりの人間を死なせる王女はいないと思っている」
「信用ではなく、都合のよい推測ね」
「今はそれで十分だ」
黒鎖が一本、床から抜けた。
墓守蜈蚣の頭部が持ち上がり、大顎が開く。
「来ます!」
リュゼルは右腕を前へ出した。
墓碑紋の中から、黒金の火種を一つだけ呼び起こす。
熱が骨へ染み込む寸前、ネフィリアの魔力が契約線を通して流れ込んだ。冷たい紫の力が炎を包み、荒れ狂う竜の怒りから、死者を送ろうとした静かな願いだけを選び取る。
黒金と紫紺。
二つの力が混ざり合い、黒紫色の炎へ変わった。
墓守蜈蚣が鎖を引き千切り、リュゼルへ突進する。
「今です!」
ネフィリアの声と同時に、リュゼルは右手を振り抜いた。
黒紫色の炎が細い奔流となって飛ぶ。
炎は墓守蜈蚣の外殻へ触れたが、骨を焦がさなかった。
亀裂へ吸い込まれ、その内側へ潜り込む。
一瞬の静寂。
次いで、魔物の巨体から幾千もの声が溢れた。
墓守蜈蚣が身を反らし、神殿全体を揺らす咆哮を上げる。黒い炎が外殻の内側を走り、閉じ込められていた怨念だけを焼いていく。
恨みが。
恐怖が。
死してなお囚われていた執着が、黒い煤となって消えていく。
外殻の隙間から、無数の小さな光が浮かび上がった。
人に似たもの。
獣に似たもの。
名も形も失ったもの。
光は地下神殿の天井へ昇り、鎖の間を抜けて闇へ消えていった。
墓守蜈蚣の動きが止まる。
長い胴が力を失い、列柱の残骸の上へ沈んだ。
リュゼルはゆっくり近づいた。
「まだ危険です」
「分かっている」
返事をしながらも、足を止めなかった。
空洞になりかけた外殻の奥に、わずかな意識が残っている。
リュゼルは黒竜鱗を右手へ薄く発現させ、墓守蜈蚣の頭部へ触れた。
飢えが流れ込んできた。
まだ小さかった頃、墓所の暗がりで骨を齧った記憶。食べなければ死ぬ。食べれば死者の声が腹へ溜まる。それでも空腹から逃れられず、肉を、骨を、怨念を食らい続けた。
やがて自分の声が、無数の死者に埋もれた。
何を欲していたのかも、どこへ帰りたかったのかも分からなくなった。
最後に残っていたのは、終わりたいという小さな願いだけだった。
「もう、聞こえない」
リュゼルは囁いた。
「中にいた奴らは、全部出ていった。お前の声も、もう埋もれない」
墓守蜈蚣の白い目から、濁りが消えた。
触れていた外殻が淡い光へ変わる。
硬く重なった骨の一部が剥がれ、黒銀色の流れとなってリュゼルの左肩へ吸い込まれた。
《葬送継承・墓守蜈蚣》
《継承能力・墓殻》
新たな墓碑紋が肩甲骨へ刻まれる。
今度は、奪ったとは思わなかった。
終わりを望んだ意識が、自ら託したものだと分かったからだ。
墓守蜈蚣の巨体は、静かに灰へ変わった。
その時、神殿の天井で何かが弾けた。
戦いの振動と契約の炎に耐えきれず、ネフィリアの右手首を拘束していた黒鎖が中央から砕ける。
枷が祭壇へ落ち、重い音を響かせた。
ネフィリアは自由になった右手を見つめた。
何度か指を開き、閉じる。自分の意思で動くことを確かめているようだった。
やがて彼女は手を伸ばす。
白い指先が、リュゼルの頬へ触れた。
鎖も結界も介さない、初めての温度だった。
「契約が続く間だけは、あなたを死なせない」
言葉は冷たかった。
けれど指先は、頬の傷を避けるように触れている。
リュゼルはその手から逃げず、紫紺の瞳を見返した。
「それはこっちの台詞だ」
二人をつなぐ紫黒色の線が、互いの鼓動に合わせて淡く脈打った。
天井が落ちた。巨大な石塊が黒紫色の魔力に触れた途端、粉々に砕ける。砂塵が一気に舞い上がり、視界が灰色へ染まった。折れた柱が回廊を塞ぎ、床から噴き出した魔力が黒い雷のように壁を走る。「ネフィリア!」リュゼルは叫びながら腕で顔を庇った。返事はない。中心にいるネフィリアは、両足を床へつけてすらいなかった。銀白の髪を逆巻かせ、ほんの少し宙へ浮かんでいる。背中から広がった巨大な黒紫色の翼が、彼女の細い身体に到底収まるとは思えないほどの魔力を放ち続けていた。完全に解放された力。数百年分。本来なら長い時間をかけて身体へ馴染むはずだったものが、一度に戻っている。「シュカ!」奥の部屋へ向かって叫ぶ。「みんな連れて奥へ!」返事。聞き取れない。だが子どもたちの足音が遠ざかっていく。逃げるなら今だった。神殿そのものが崩れている。出口まで走れば、間に合うかもしれない。ネフィリアを置いて。その考えが頭を掠めた瞬間。リュゼルは自分でそれを切り捨てた。できるはずがない。自分が手を伸ばすと決めた。掴むかどうかは彼女に任せる。だが、彼女が掴んだ後でこちらから手を離すつもりはなかった。「ネフィリア!」魔力の奔流へ飛び込む。肌が裂ける。見えない刃で切り刻まれるような痛み。外套が破れる。それでも進む。一歩。二歩。ネフィリアまであと少し。翼が動いた。吹き飛ばされる。背中から床へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。「っ……」起き上がる。右腕の墓碑紋が熱い。完全契約はまだ切れていない。なら。つながっている。彼女がどれほど深い場所に沈んでいても。「もう一回だ」自分へ言い聞かせる。走る。今度は翼が振られる前に飛び込んだ。ネフィリアの身体を抱く。冷たいと思っていた肌が、今は焼けるほど熱かった。「離れ……」声。聞こえた。「ネフィリア?」「離れて……」本人の声。だが苦しげだ。「殺す……」「誰を」「全部……」抱いた身体が震える。黒竜の記憶へ呑まれた自分と似ている。しかしネフィリアの中にあるのは、一人分の記憶ではない。深淵王家。滅びた一族。その血に刻まれた魔力。何百年もの封印。怒り。恐怖。孤独。全部。「渡せ」リュゼルは彼女の背へ手を回す。「魔力を俺へ流せ」契約へ意識を向ける。
ネフィリアが「自由になりたい」と口にした瞬間、地下神殿は、長い眠りから目覚める獣のように身震いした。床に刻まれていた古代文字が一斉に黒紫色の光を帯び、何百年もの間、埃と血に埋もれていた溝を光が走っていく。柱から柱へ、壁から天井へ。振動は次第に大きくなり、継ぎ目から細かな砂が降り注いだ。奥の部屋で休んでいた子どもたちが不安そうな声を上げ、三匹の月角兎が物陰へ駆け込む足音が聞こえる。「ネフィリア、下がれ」リュゼルは反射的に彼女の前へ出た。だが、下がれる場所などない。ネフィリアの首と腰、両足から伸びる六本の黒鎖が、何者かの手に引かれたように空中へ持ち上がっていた。金属でできているはずなのに、鎖の表面が濡れた生き物の皮膚のように脈打つ。黒い魔力が一節ずつ膨れ、それぞれの先端から床へ滴り落ちた。一滴。二滴。黒い雫が石床へ触れるたび、人の形へ盛り上がる。鎧。兜。長剣。最初の一体が姿を現した時、リュゼルの右腕に刻まれた墓碑紋が激しく焼けた。「……こいつら」ネフィリアの声が低くなる。六本の鎖から、一体ずつ。計六体。全身を黒銀色の重鎧で包んだ騎士が、半円を描くように二人を囲んでいく。顔は兜の奥に隠されている。目に当たる隙間には赤紫の光だけが灯り、そのどれからも生者の呼吸は聞こえなかった。生きていない。だが、ただの人形でもない。「《刑罰騎士》……」ネフィリアの唇から、絞り出すように名が落ちた。「知ってるのか」「深淵王家の処刑に使われた魔法人形よ。正確には、処刑者たちの戦闘記録と意思を写したもの」彼女の頬から血の気が引いている。「王家に背くことを許さないための兵器だった。それが最後には、王家を殺すために使われた」六体の騎士が、同時に剣を抜いた。重い金属音が重なる。音だけで胸が圧迫される。「どうすれば鎖が外れる」リュゼルが問う。「おそらく」ネフィリアの視線が六本の鎖を辿る。「一体につき一本。あれを倒せば、対応する封印が砕ける」「全部で六」「ええ」「分かりやすいな」「笑っている場合?」「笑ってない」最前列の刑罰騎士が踏み込んだ。速い。重鎧の重量を感じさせない。リュゼルはネフィリアを抱くようにして横へ転がった。直後、剣が二人のいた床へ叩きつけられ、石が砕け散る。破片が頬を掠め、熱い筋が一本走った。立ち上がる
ネフィリアは、その夜ほとんど口を開かなかった。神殿に残された古い寝台へ腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、どこでもない場所を見ている。青白い鉱石灯が銀髪の輪郭だけを浮かび上がらせ、紫紺の瞳の奥までは照らさない。六本の鎖は、いつもと変わらず彼女の身体から伸びていた。首。腰。両足。そして背後の封印柱。何年、何十年、あるいはそれ以上。彼女はそれを当然のものとして身につけてきた。リュゼルは少し離れた場所で、肩の包帯を巻き直していた。片手ではうまく締められない。何度目かで布が緩み、舌打ちしそうになる。「貸して」ネフィリアが言った。顔はまだこちらを向いていない。「いい」「あなたは片手で巻くのが下手」「慣れてないだけだ」「慣れないで」短い言葉。リュゼルは手を止めた。ネフィリアが立つ。鎖を引きずりながら近づき、彼の横へ座る。包帯を受け取る。冷たい指先が肩へ触れた。布を解く。傷口を見た瞬間、眉間へ小さな皺が寄った。「深い」「動くから余計に開いた」「自覚があるなら動かないで」「ザハルに言ってくれ」「死んだ者へ説教する趣味はないわ」包帯を巻く手つきは意外なほど丁寧だった。少し強く締められる。「痛い」「罰よ」「何の」「私に同じ傷をつけた罰」「契約したのはそっちだろ」「だから腹が立つの」理屈が通っているようで通っていない。けれど、そのやり取りが終わると、再び沈黙が降りた。古地図は二人の前に広げてある。裏面の文字。《王女を解き放つな。彼女が望むまでは》リュゼルはその一文を何度も見た。ヴァルディオス。最初に看取った古代魔獣。彼の中にはその記憶の断片が眠っている。もっと深く潜れば、この言葉を書いた理由が分かるかもしれない。「調べる」リュゼルが言う。ネフィリアの手が止まった。「何を」「ヴァルディオスの記憶」「駄目」即答。「理由は」「分かっているでしょう」「でも」「駄目よ」声が強くなる。リュゼルは黙った。《葬送継承》で受け取った記憶は、ただの知識ではない。死者の感情。痛み。恐怖。願い。深く触れれば触れるほど、それらと自分の境界が曖昧になる。一度、ヴァルディオスの怒りに呑まれかけた。あの時はネフィリアの声で戻った。次も戻れる保証はない。「私のことで、あなたが自分
城の北側へ伸ばしていた影鳥が一羽、翼を半ば失った状態で戻ってきた。黒い羽根を散らしながら城門を越え、石床へ落ちる。ネフィリアがすぐに片膝をつき、掌へ乗せると、魔力で作られた小鳥の輪郭が数度揺らいだ。外敵に攻撃されたのだと理解した瞬間、近くで荷の整理をしていたイセラの黒豹の耳が立った。「人?」「ええ。それもかなり多いわ」ネフィリアは目を閉じ、壊れかけた影鳥が最後に見た光景を読み取った。紫紺の瞳を開いた時、その表情からわずかな緩みも消えている。「三十七。全員人間。統一された甲冑を着ているから、傭兵ではないでしょうね」「紋章は?」ヴァレクの声が背後から飛んだ。いつもより低かった。彼は冥甲熊との一件以来、城の武器庫を整理する仕事を勝手に引き受けていた。傷はほぼ塞がっており、黒鉄の鎧もフィオルが修理できる範囲だけ手を入れている。胸元に残された古い紋章の削り跡だけは、本人が触らせなかった。ネフィリアは影鳥から読み取った形を説明する。「白地に、剣を抱く双頭の鷲」ヴァレクの右目が細くなった。「フェルザだ」短い言葉だったが、イセラがすぐに腰の湾曲刀へ手を掛けた。「お前の国か」「元、だ」ヴァレクは訂正すると、城門へ向かって歩き始めた。リュゼルがその前へ回り込む。「どこへ行く」「俺を探している」「まだそう決まってない」「フェルザ王国の正規騎士が、観光のために奈落へ三十七人も降りてくると思うか」返す言葉がなかった。ヴァレクはそのまま進もうとする。リュゼルは退かなかった。「まず話を聞く」「俺が出れば済む」「済むかどうかを決めるのは、話を聞いてからだ」ヴァレクの眉間へ皺が寄る。しかし口論を続ける前に、外から角笛が響いた。三度。短く。軍隊が交渉を求める時の合図だとヴァレクが告げる。「向こうもすぐ攻める気ではないらしい」リュゼルは黒鎖短剣を腰へ差した。「なら交渉する」ネフィリアが隣へ立つ。「私は姿を隠したほうがいい?」「いや」リュゼルは首を振った。「ここにネフィリアがいることを隠して話しても意味がない」「相手が人間なら、私を見た瞬間に交渉が終わる可能性もあるわよ」「それでもだ」イセラが鼻を鳴らす。「相変わらず面倒な正直者だな」「嘘が下手なんだよ」「それは知ってる」城の中では、シュカたちがすでに年少者を奥
灰牙が残した荷物には、子ども用の鉄枷が三十七個入っていた。数え終えた時、リュゼルはしばらく指を動かせなかった。革袋から取り出して石床へ並べた枷は、どれも小さい。成人の手首には合わない。中には幼い子どもでも余るほど細いものまであり、内側には逃亡を防ぐための返しがつけられていた。「壊していい?」フィオルより幼く見える獣人の少年が訊いた。「いいよ」リュゼルが答えると、少年は両手で一つを持ち上げ、石へ叩きつけた。一度では壊れない。二度。三度。他の子どもも近づいてくる。誰も声を上げなかった。ただ順番に枷を受け取り、石床へ打ちつける。乾いた金属音が神殿に何度も響いた。リュゼルは止めなかった。最後の一つが歪み、使い物にならなくなってから、灰牙の荷物を改める。保存食。油。縄。解毒薬。金貨。捕獲用の眠り粉。それから、ザハルが身につけていた革袋。血と灰が付着している。ネフィリアは少し離れた柱へ背を預けていた。肩の傷は布で巻いてある。リュゼルと同じ場所。本人は痛みなど存在しないような顔をしているが、ときおり右手で左肩を押さえる。「休んでいていい」「あなたも負傷者よ」「俺は荷物を見るだけだ」「私は立って見ているだけ」「なら同じか」「そうね」短いやり取り。以前なら、それで会話は切れていた。今は不思議と沈黙が重くない。リュゼルは革袋の口紐を解いた。最初に出てきたのは、数枚の依頼書。文字は魔族領で使われる公用文字らしい。リュゼルには読めない。ネフィリアへ渡す。「何て書いてある?」彼女は目を走らせた。「回収対象。十五歳以下を優先。魔力保持者、混血、希少種は損傷を避けること」声が僅かに低くなる。「搬送先は?」「書いてない。符号だけ」「黒冠研究棟と同じか」「おそらく」紙の端には、現魔王家の紋章とは別に、小さな白い円が押されていた。それを見たネフィリアの指が止まる。「それは?」「知らない」即答だった。しかし紙を戻す動きがほんの僅かに遅れた。リュゼルは追及しなかった。次に出てきたのは硬貨。続いて黒い鍵。そして最後に、何度も折り畳まれた厚い皮紙。開いた瞬間、埃と古い油の匂いが立った。「地図か」祭室の床へ広げる。大きい。現在彼らが把握している神殿周辺だけではない。奈落の深層が、複雑な樹木
ネフィリアが神殿の外へ出ると、奈落の空気そのものが彼女を避けるように静まった。足首に残る枷から六本の鎖が伸び、石床の上を擦っている。可動範囲の限界は、祭室から十数歩。それ以上は進めない。それでも彼女が姿を見せただけで、二十人近くいた灰牙の傭兵たちから声が消えた。銀白の長髪。黒曜石を思わせる角。胸元に揺れる、黒い雫型の王家の宝石。「本物……なのか」誰かが呟いた。「深淵王家は全員死んだはずだ」「処刑されたって……」「見るな。呪われるぞ」恐怖は、小さな声ほどよく広がった。ネフィリアは一つも反応しなかった。視線は最初からザハルの足へ向いている。その下にはリュゼルがいる。肩から血を流し、胸を踏みつけられ、息を整えようとしている彼だけを見ていた。「私の契約者から足を退けなさい」静かな声だった。怒鳴ってはいない。だからこそ、傭兵たちの背筋を冷たいものが走った。ザハルは一瞬だけ目を細めたあと、口角を持ち上げた。「契約者?」わざと靴へ力を込める。リュゼルの肋骨が軋んだ。ネフィリアの紫紺の瞳が細くなる。「聞こえなかった?」「聞こえたさ」ザハルは彼女の角から宝石へと舐めるように視線を動かした。「王家の生き残り。しかも女。こりゃ大当たりだ」部下たちが戸惑う。「隊長、やめたほうが……」「黙れ」「でも深淵王家は禁忌指定が――」「だから高えんだよ」ザハルの目に、露骨な欲が浮かぶ。「現魔王家に持っていきゃ、どれだけ出すと思ってる。死体ですら値が付く血だ。生きてりゃ桁が違う」ネフィリアの表情は変わらない。「王家は滅びた」ザハルが嘲る。「お前には何もねえ。国も、兵も、お前の名前に跪く臣下もいない。鎖につながれた小娘一人で何ができる」「ええ」あまりにも簡単に認めたため、ザハルの笑みがわずかに止まった。ネフィリアは足元の鎖を拾い上げた。冷たい金属が白い指の中で擦れる。「私には国も、軍も、臣下もいない」声には悲嘆も屈辱もない。事実を事実として置くような声音だった。「けれど」彼女の影が、揺れた。鉱石灯の位置とは合わない方向へ。細い影が一本、石床の亀裂を這う。「それが彼へ触れてよい理由にはならない」影が爆発的に広がった。「っ!」傭兵の一人が悲鳴を上げる。黒紫色の影が足首へ絡みつき、石床へ縫いつけていた。







